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千葉県印西市に住む主婦が、何とか市内でも自給エネルギーを持てないかなと考えて学ぶブログ。情報集積、学習日記です。
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<<3.水呑百姓

4.下人

奥能登の時国家には、200~300人の下人がいたといいます。

豪農の下人は、従来は、豪農の家に縛り付けられたいわば農奴のように説明されてきました。しかし、時国家の古文書・・・上に紹介したものも含めてですが、それら古文書は、襖の下張りから出てきたもので、何らかの理由で、そうした目につかない形で扱われたようです・・・によると、石見国出身の下人が、佐渡にいる兄弟に会いに行かせて貰いたいと願い出て認められたというのです。つまり、旅行にいろいろ制約のあった江戸時代でも、その程度のことは出来たのです。この下人は、水手(かこ)から時国家の下人になった人らしいとのことです。

その他、時国家の下人の中には、塩づくりが専門の塩師をはじめ、石工、鍛冶、桶結いなどがいたとのことです。北前船の船頭をしていた友之助さんは、蔵にあった帳簿によると、わずかな田畑を時国家から借りて農耕をしていたとのことで、そのことだけみるとまことに貧しい小作人にみえるのですが、同時に船頭だったのです。襖の下張りが発見されなかったら、農奴ということで通っていたはずでした。

このようなことが、奥能登の時国家だけでなく、他の地域にもみられるのです。若狭国、伊予国、瀬戸内の島々、紀伊半島などは、海岸まで山が迫るところが多く、そうした村(浦と呼ばれることも多い)は、農地が少なく貧しい百姓が多かったと思われるのですが、製塩、漁撈、交易、海運、林産などを多角的に営む村であり、そこの百姓も多角的にいろいろな仕事に従事していた、というのです。すなわち、家や土地に縛り付けられた農奴といったイメージの人々はさほど多くなかったと考えられるのです。

それは、海に面した浦の話だけではなく、山に囲まれた村でも同様で、田畑を耕すだけでなく、林産は勿論、川の船運、製鉄もあり、また、桑、苧(からむし)、漆などから布を作り、京に出すことで潤っていたところもあったわけです。そこの百姓は、農民というだけでなく、また、篤農家(農業をしていただけでない)のもとで働く下人も、それらに携わっていてかなり自由度があったというのです。

このように見てくると、わが国の中世から近世にかけての農村像、百姓像、下人像は、かなりの見直しが必要だろう、というところが網野さんの説だ、というところがわかります。祖父の家の軒下には、艪がぶら下がっていましたが、農とともに漁にも従事していた証しでしょうし、塩田もあったという話は聞いたことがあります。先祖の姿も違って見えてきます。





 
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