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<<5.村は農村か
6.九公一民
さて次に、年貢、つまり税金のことです。
先の輪島の場合、年貢の税率は88%だったといいます。年貢は、石高を基準にしていました。太閤検地以来の伝統でしょうか、検地により田畑や屋敷などをすべてコメの量で換算評価し、税率を決め年貢を徴収していました。輪島は、都市ですから石高は少ないのですが、加賀藩は、輪島にほとんど「九公一民」の年貢を課していたわけです。
なぜ、こんなに高い税率になったか。百姓が、商工業、海運などで巨利を得ていることを前提にしたから、と考えられています。商売による利益は、現在と違って消費税を掛けるほどに商業システムが完成していませんから、課税しにくかったようです。そこで、土地に課税したというのです。百姓側でも、それを心得ていて、全く文句をいわなかったそうです。こうした高率の年貢があちこちで行われていたのですが、そうした実態があったのです。
村=農村だとしたら、そんなことはできなかったはずです。村の中には、農業中心の農村もありましたが、都市もたくさんあったのです。百姓がいろいろな職業をになっていたのです。
ところで、年貢は、歴史上、律令制の下での租庸調といった公課制度と違って、厳密な概念といえないところがあるようですが、史料初出は11世紀末期とされているとのことです。年貢とよばずとも、租庸調の特に租は、口分田を始め田から徴税されていましたから、大化の改新の時代にさかのぼるわけです。吉川弘文堂の日本史年表で見てみましたところ、三世一身法が723年、墾田永世私財法が743年ですから、白鳳、天平の時代から、百姓はしっかり税を取られていたわけです。
その時代、献上の仕きたりがいろいろあったようで、年表を見ると、「越国、燃土と燃水を献上」「対馬、銀を献上」「陸奥小田郡に産せる黄金を献上」とかが並びます。租にしてからが、共同体成員が田の収穫の一部を初穂として首長に貢納する初物貢納儀礼が稲の収取体系へと転化し、律令制のもとで租税とされた、ということですから、貢納の習慣が、税を生んだわけで、当時の権力が、権力行使を盤石とするために共同体の習慣を利用したということのごとしです。
百姓は、こうしたことで時の権力者を下から支えたわけですが、歴史の中で、不可欠の支え役が、その役に見合うだけの分け前を十分に得られたかといえば、しばしば不十分であっただけでなく、時に不条理でさえある状況におかれたことがありました。先日、NHKで「開拓者たち」というドラマが4回にわたり放映されましたが、あの満洲開拓とその後の戦後開拓に携わった方々の苦難をおもえば、そうした歴史がなぜにいまだに繰り返されるのか、と思います。
また、話変わりますが、現代のこの閉塞感の中で、中小企業、町工場のものづくりで頑張る「百姓」の姿が、ときどき報道されますが、これは、昔から続く百姓の底力であって、ここにこそ、歴史を切り拓いてきた/切り拓く原動力がみてとれると思います。大企業の力が大きいのは間違いないのですが、そちらにばかり陽の眼をあてることはないのであって、あまりに陽のあてられ方が少ない「百姓」に陽をあて、バランス良い経済と生活を実現することが、政治に求められていると思うのです。
6.九公一民
さて次に、年貢、つまり税金のことです。
先の輪島の場合、年貢の税率は88%だったといいます。年貢は、石高を基準にしていました。太閤検地以来の伝統でしょうか、検地により田畑や屋敷などをすべてコメの量で換算評価し、税率を決め年貢を徴収していました。輪島は、都市ですから石高は少ないのですが、加賀藩は、輪島にほとんど「九公一民」の年貢を課していたわけです。
なぜ、こんなに高い税率になったか。百姓が、商工業、海運などで巨利を得ていることを前提にしたから、と考えられています。商売による利益は、現在と違って消費税を掛けるほどに商業システムが完成していませんから、課税しにくかったようです。そこで、土地に課税したというのです。百姓側でも、それを心得ていて、全く文句をいわなかったそうです。こうした高率の年貢があちこちで行われていたのですが、そうした実態があったのです。
村=農村だとしたら、そんなことはできなかったはずです。村の中には、農業中心の農村もありましたが、都市もたくさんあったのです。百姓がいろいろな職業をになっていたのです。
ところで、年貢は、歴史上、律令制の下での租庸調といった公課制度と違って、厳密な概念といえないところがあるようですが、史料初出は11世紀末期とされているとのことです。年貢とよばずとも、租庸調の特に租は、口分田を始め田から徴税されていましたから、大化の改新の時代にさかのぼるわけです。吉川弘文堂の日本史年表で見てみましたところ、三世一身法が723年、墾田永世私財法が743年ですから、白鳳、天平の時代から、百姓はしっかり税を取られていたわけです。
その時代、献上の仕きたりがいろいろあったようで、年表を見ると、「越国、燃土と燃水を献上」「対馬、銀を献上」「陸奥小田郡に産せる黄金を献上」とかが並びます。租にしてからが、共同体成員が田の収穫の一部を初穂として首長に貢納する初物貢納儀礼が稲の収取体系へと転化し、律令制のもとで租税とされた、ということですから、貢納の習慣が、税を生んだわけで、当時の権力が、権力行使を盤石とするために共同体の習慣を利用したということのごとしです。
百姓は、こうしたことで時の権力者を下から支えたわけですが、歴史の中で、不可欠の支え役が、その役に見合うだけの分け前を十分に得られたかといえば、しばしば不十分であっただけでなく、時に不条理でさえある状況におかれたことがありました。先日、NHKで「開拓者たち」というドラマが4回にわたり放映されましたが、あの満洲開拓とその後の戦後開拓に携わった方々の苦難をおもえば、そうした歴史がなぜにいまだに繰り返されるのか、と思います。
また、話変わりますが、現代のこの閉塞感の中で、中小企業、町工場のものづくりで頑張る「百姓」の姿が、ときどき報道されますが、これは、昔から続く百姓の底力であって、ここにこそ、歴史を切り拓いてきた/切り拓く原動力がみてとれると思います。大企業の力が大きいのは間違いないのですが、そちらにばかり陽の眼をあてることはないのであって、あまりに陽のあてられ方が少ない「百姓」に陽をあて、バランス良い経済と生活を実現することが、政治に求められていると思うのです。
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